明治の埋立地に建つ庭で。尾上別荘様、古竹の伐採と苔の手入れ(2026年7月)
- 飯島 一郎

- 53 分前
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朝一番、松の根元に足をかけたとき、樹皮の下がまだ夜の湿り気を残しているのがわかった。
三重県四日市市尾上町、尾上別荘様の庭。
この木も、この石も、誰かが百年以上前に据えたものだ。
今日はその庭に、古くなった竹の伐採、苔の除草、落ち葉の清掃、消毒散布と、一日を通して手を入れさせていただきました。
手を動かしながら考えていたのは、今日の作業のことだけではなくこの庭を作った人たちが、何を思ってこの一本の松を、この一つの石を置いたのかということでした。

一日は高いところの片付けから始まり松の幹に体を預け、絡みついた古い竹を上から一本ずつ落としていく。
竹は軽いようでいて、枯れて水分が抜けたものほど扱いにくい。
この松を誰が植えたのか、もともとあったものなのか記録は残っていない。
ただ、この太さになるまで誰かがずっと見守り、剪定し、手を離さずにきたことだけは、幹に触れればわかる。

生垣まわりの片付けが終わる頃には、日はもう高くなっていた。次は庭の主役、苔に取りかかる。

苔は庭の顔だ。踏めば沈み、放っておけば他の草に負ける。今日は苔の間に入り込んだ雑草を手入れしました。
砂利も少しずつ寄せながら苔を増やしていく地道な作業です。
苔を守るということは、結局は人の手で一本ずつ選り分けるということに尽きる。
この単調な作業の中にこそ、かつての庭師たちが百年以上続けてきたことと、今日の自分たちがつながっている実感がある。

庭の奥へ進むと、苔と石組みの間に落ちば清掃をブロワーと熊手、竹箒。道具を替えながら、庭の隅々まで落ち葉を掃除します。


落ち葉を片づけたあとは消毒散布。生垣の根元、側溝、低木の一本一本に薬剤を行き渡らせる。この時期は病害虫の動きが速い。見えるようになってからでは遅い。


伐採した古竹は軽トラの荷台にまとめて積み込み。

作業を終えて灯籠のそばに立つと、木漏れ日が石の表面に落ちていた。この庭の時間は、今日一日の作業だけでは測れない。

作業の途中、庭のもう一つの謎について、担当者と話した。
苔の間に石で縁取られた池形の窪みがある。水を張った形跡がなく、作庭当初から水を入れる設計ではなかったと見られる枯池様式。

この庭園様式は枯山水とは別物ではなく、枯山水の中の一つの型として名前がついている。
重森三玲らの分類では枯山水は平庭式・築山式・枯池式・枯流れ式・特殊形式の5つに分けられ、枯池式は水を使わず石を組んで池そのものの形を表す様式とされる(千葉工業大学の学生論文でも同じ5分類が確認できた)。
実例としては旧徳島城表御殿庭園(千秋閣庭園)や滋賀県の青岸寺が挙げられている。
なお同論文は水景をさらに12の形態に分類する考察も行っているが、原典PDFの直接確認ができず本文の詳細までは裏付けが取れていない。
担当者によれば、先日の台風6号(2026年6月)の豪雨でこの枯池にかなりの水が溜まったが、一日足らずでほぼ浸透して抜けたという。気象庁 過去の気象データ検索(四日市観測所)によれば、6月2日の日降水量46.0mmに続き、6月3日は154.0mmを記録し、2日間で約200mmの雨が降っている。
特に6月3日未明から午前にかけては1時間に最大26.5mmという強い雨が数時間続いた。
この短時間に集中して降った200mm近い雨が、枯池からほぼ一日で抜けたことになる。
ここから先は憶測であることを断った上で書く。
現代のグリーンインフラの分野で使われる雨庭(レインガーデン)は、普段は乾いていて雨が降ったときだけ一時的に水を溜め、時間をかけて地下に浸透させる窪地として設計される。今回の枯池の挙動は、機能としてこの雨庭の定義に近い。
しかも調べてみると、日本の雨庭という取り組みそのものが、日本庭園の枯山水を参考に、河川工学者の島谷幸宏氏(九州大学)と造園学者の森本幸裕氏(京都大学)によって近代都市に翻訳し直されたものだという記述が見つかった。
ただし、作庭当初の設計者が排水や浸透を意図していたという直接の証拠は見つかっていない。
平安時代の作庭書『作庭記』には、水を張る池について、水が漏れないよう地面を一尺ほど掘り、水を通さない埴土(粘土)を底に使うという記述がある。
つまり当時の庭師は、水を保持したい池には意図的に止水加工を施していたことになる。
逆に言えば、この枯池に止水加工がされていないとすれば、それは水を溜める気がなかったことの結果であって、浸透させることそのものを狙った設計だったとまでは言い切れない。
それでも、憶測を承知の上で、この庭に触れる者として書いておきたい事がある。
名前も残さず、意図を書き残すこともしなかった庭師が、水を溜めないという一つの判断を下した。
その判断は、当時想像もつかなかったはずの、令和の記録的豪雨という形で、百年以上の時を超えて今日も静かに機能を果たしていた。
私たちがこの庭で竹を切り、苔を守るのも、その判断を継いで次の百年に渡す作業の一つに過ぎない。
尾上別荘様の庭は、明治33年(1900年)ごろにこの地に定住した実業家、小菅剣之助氏が邸宅を構えたのが始まりだと伝わっている
その敷地がある尾上町という土地そのものについて郷土史、四日市のあゆみ刊行会編『四日市のあゆみ:目でみる郷土史』を読みと、この庭の背景に重なる一つの物語出会った。
尾上町は、明治42年(1909年)6月に埋立が完成したばかりの土地だったという(同書p142)。翌明治43年には、この埋立地で四日市港の新しい港の起工式が行われている。尾上別荘様が建つこの土地は、庭ができるよりわずかに先に、海から生まれたばかりの土地だったことになる。
その埋立と四日市港の礎を築いたのが、実業家の稲葉三右衛門である。同書(p168〜170)によれば、稲葉は明治7年ごろから私財を投じて港の波止修築工事を始め、15年にわたる苦難の末に工事を完成させた。私財はほぼ底をつき、政府への直接嘆願まで行っている。
今この港に十万金を投じるのは、いつか四日市に百万金をもたらすためだと、稲葉自身が語ったと同書に記されていた。
自分が生きているうちに完成を見届けられるかもわからない事業に、私財のすべてを注いだ人がいた。
そして今回、別の資料、三重今日新聞社編『躍進四日市港:事業と人物を観る』(昭和14年刊に、思いがけない続きがあった。
尾上別荘様の主、小菅剣之助氏その人が、四日市築港利用会の会長として紹介されていたのである。
同書には、四日市港の利用開発に心魂を打ち込んだのはこの人をおいて他にないとあり、昭和6年秋にも巨額の私財を投じて港の利用発展に尽くしたと記されている。
稲葉三右衛門が港をつくったのではなく、正しくは港を育てる土台をつくり、小菅剣之助がその港を実際に育てた。
二人が直接どこまで縁があったかは、まだ確かめられていない。
だが、私財を投じて港に尽くした男が二代続けて同じ土地に関わり、その一人が今、私たちが手入れをするこの庭を残したという事実は動かない。
港を築いた意志を、庭を構えた人が継ぎ、その庭を今、私たちが管理させていただいている。
今日、竹を一本切り、苔の草を一本抜いたこの庭は、120年余り前にはまだ海の底にあった土地の上に立っている。
私財を投じて港を築いた男、その港を育てた男、そして名前も残さず枯池の水はけを決めた庭師。
誰も自分の仕事の全部を見届けられたわけではない。
それでも彼らが積み重ねたものの上に、今日の一本の松があり、一つの苔の島がある。
その事実を明かし、次の世代に伝えていくことは、剪定屋空にとって単なる庭の手入れ以上の意味を持つ。尾上別荘様の庭園年間管理は、その意志を継ぐという、静かだが重い仕事の続きなのだと思う。
出典: 四日市のあゆみ刊行会編『四日市のあゆみ:目でみる郷土史』(国立国会図書館デジタルコレクション pid 9569880)、三重今日新聞社編『躍進四日市港:事業と人物を観る』(同 pid 1030469、昭和14年刊)







